その日、平林はナイジェリアの最大都市ラゴスを訪れていた。約2億人にのぼる人口、新旧の産業が牽引するGDP、原油や天然ガスなどの資源生産量、そのいずれもアフリカ54か国の中で最大規模を誇る同国には、多くの外国企業が進出している。 　ビジネスやプライベートでアフリカ各地を訪ねるたび、日本にはない多彩な景色を見てきた平林にとっても、それは忘れられない光景だった。空港からラゴスの市街地へと向かう近代的なハイウェイの下に、トタン屋根の小屋がひしめく水上スラムがどこまでも広がっている。サハラ砂漠から風に乗ってきた砂塵が、霞のように一帯を覆っているせいで、どこか幻想的ですらある。平林は思った。 　まるでSFのようだ。 　一体いま自分はどこにいるのか、どこに立っているのか、文字通り立脚地がわからない。その境界のあいまいさは、まさにアフリカでの弁護士活動の投影でもあった…。

動物や自然が大好きで、ネイティブアメリカンに憧れる子供時代を平林は過ごした。原始の面影をとどめる民族がいまなお暮らし、野生の動物たちが闊歩する大地があると知り、いつからかアフリカに惹かれるようになっていく。その後も動物や自然への興味を持ち続け、生物学者を志して東京大学に進んだ。だが、その頃隆盛を極めていた分子生物学や遺伝子工学には、心の底から傾倒することができない。 　そんなとき、ある生物学者の著書と出会った。ヒトの胎児も羊水の中で魚として生まれる。そんな生命記憶の根源を辿ってヒトの正体を解き明かしていくアプローチに共感を抱き、生物が発生過程で「上陸」し、大きさが決まるプロセスの研究に打ち込んだ。美しい血管網の中心で揺れる透明な胚と、その中で小さくはっきりと動く心臓を実体顕微鏡でのぞき込む。それは、いま振り返ってみると、人間の可能性を重んじる恩師のもとで、自分を見つめ直す時間でもあった。 　これから自分は、どう生きていくべきなのだろうか？ 　修士課程を終えた平林は、博士号を取得するか、就職するか、迷いに迷った。結局、どちらも選択しなかった。その年に新設されたロースクールの門を叩いたのである。 　生物学と法学のギャップは大きい。それでも、一度きりの人生、6年間学んだ生物学とは全く異なる法律学という学問体系を学び、2つの視点から世界を見てみたい。そんな思いが平林の背中を押した。 慣れない法律用語に苦戦しながらも、ロースクールでの必死の3年間を経て、平林は司法試験に合格した。その後は、司法修習生として沖縄で過ごす。内地とは異なる空気と時間の流れ、毎週末のように離島を訪ねて回り、ときには台湾まで足を延ばして、日本の境界について考えた。 　就職活動では、いくつかの法律事務所の面接を受けた。萎縮するような張り詰めた雰囲気の事務所も少なくない中で、TMIは異なっていた。自分と同じ目線で話をしてくれるのである。寛容な空気に、思わずこんな質問が口から出ていた。 「アフリカの仕事はやらないのですか？」 「アフリカ…、スポーツ関係で担当したことのある先生もいたのではないかな」　当時はまだ日本の法律事務所のアジア展開も始まっていない頃だ。夢のある話だね、といった反応を予想していたから、ごく普通の返答はむしろ意外だった。しかし、まさか自分が将来アフリカに駐在することになろうとは、このときの平林は想像すらしていなかった。

平林が再びアフリカという言葉を口にするのは、しばらくあとのことになる。入所からの駆け出し時代は、とにかく仕事に没頭した。新人の指導に時間を惜しまず、そして自ら情熱を持って業務に取り組むパートナーや先輩アソシエイトに囲まれ、朝から晩まで、週末も働く仕事だけの生活は、不思議と苦にならなかった。あっという間に4年が過ぎていく。魅力的な個性を兼ね備えた優秀な同期にも恵まれ、切磋琢磨した。そうして迎えた入所5年目、平林はそろそろ留学しようと申請書を出した。2年目の研修計画として記入したのが、南アフリカの法律事務所だった。 　これを書いたら本当に行くことになる、大丈夫か…。 　もうひとりの自分の声が、提出ボタンをクリックした瞬間に聞こえたことをよく覚えている。 学生時代はバックパッカーとして世界各地を回ったが、アフリカの大地を初めて踏んだのはTMIへの入所直前、二回試験を終えた休みのときである。バックパック旅行は最後だろうから、子供の頃から憧れていたアフリカを残しておくわけにはいかない。初日の宿だけ予約して、ウガンダの首都カンパラ行きの飛行機に乗り込んだ。初めてのアフリカの旅は平林に鮮烈な印象を残した。タンザニアでの5日間、2人きりで旅をした初老のサファリドライバーが、別れ際にこう言ってくれたのはいまも忘れられない。 「いつか仕事で、またアフリカに戻ってきなさい」 　その言葉通りになろうとしている。だが、楽しい思い出ばかりの旅と全く異なるのはもちろん、短期出張ですぐ戻ってくるのと長期駐在でそこに住むのとは異なる。本当に行く覚悟はあるのか、という思いもよぎる。 　窓の向こうにコンクリートのジャングルが広がるオフィスの一角、留学委員会のシニアパートナーは、平林の留学申請書に目を落とし、にこやかな表情を浮かべた。 「ほう、アメリカ留学のあとは、南アフリカでの研修ですか。面白いですね。ぜひ実現してください」 これで、あとには退けなくなった。留学前の夏期休暇には南アフリカの法律事務所を訪問し、受け入れ先の手筈を整える。その頃、自らミャンマーと日本を行き来し、オフィスの開設に尽力していたシニアパートナーは、知人が主催するアフリカ関係のセミナーを紹介してくれるなど、平林への支援を惜しまなかった。 　カリフォルニアの陽光の下、平林はスタンフォード大学での留学生活をスタートさせた。世界中から集まった学生たちに刺激を受けながら、国際的な視野と実践的な語学力を磨いていく。ところが、卒業後、一時帰国して南アフリカへの出発の準備を始めた途端、暗雲が立ち込めた。平林の受け入れを約束していた南アフリカの弁護士が他の事務所に引き抜かれ、話が白紙に戻ってしまったのである。すでに帰国しているし、このままどこへも行けずに事務所に戻ることになるのだろうか…。文字どおり先の見えない日々が過ぎていった。 　活路は、思いがけず早く開かれた。帰国から1、2か月が過ぎた頃、スタンフォード時代の友人に送ったメッセージへの返信が届いたのだ。 　“時間がかかってしまってごめん。うちの事務所が、ぜひ来ないかと言っている” 　スタンフォードは自由な校風だったこともあり、平林は興味の赴くままアフリカ学部の授業やゼミに多く参加していた。そこで出会い、意気投合した友人が、ケニアの法律事務所の代表の甥っ子だったのである。急展開にもかかわらず、TMIの先生たちも出向を実現すべく、全面的に協力してくれた。 　そこからは慌ただしく毎日が過ぎていった。出向が決まって1カ月後、平林はスーツケースひとつでナイロビの空港に降り立った。これから先どうなっていくかは、見当も付かない。いや、先のことはおろか…と平林は思った。現地の事務所が手配すると言っていた、迎えの車は本当にやって来るのだろうか？

ケニアに日本の弁護士が駐在するのは平林が初めてだった。「この男に一体何ができるのだろう？」と感じるのは、アフリカの現場を知る日本企業駐在員も、出向先のケニア人弁護士たちも同様であった。そんな中、できることを一つ一つ見つけていくところから平林は始めた。具体的な戦略を事前に持っていたわけではない。それでも、現地での自らの存在意義だけは明確だった。　アフリカというアウェイで闘う日本企業を弁護士としてサポートする。そのために、JETROの支援のもとで毎月の勉強会を開催したり、ケニア人弁護士の協力を得ながら日本企業の小さな法律問題の解決に奔走したりした。ケニアの法令の粗削りの条文もひとつずつ読んでいきながら、目の前の課題に平林は力を注いでいった。現地の日本企業の信頼を得ること、出向先のケニア人弁護士たちの信頼を得ること、そのどちらが欠けても最善のサービスは提供できない、そのことだけは常に意識するようにしていた。その甲斐あって、日本企業からの依頼もごく自然に入ってくるようになり、こう言ってもらえるようにもなった。「平林先生がいなければ、ケニアの日本企業支援は成り立ちません」　日本企業がアフリカでリーガルサービスを受けるには、高いハードルが存在している。アフリカでは、日本企業が言葉や文化の違いに悩まされるだけでなく、期待する成果が得られないまま法律事務所に高額のフィーを支払わざるを得なくなるケースも少なくない。悪質な弁護士の関与により、問題がさらに深刻化するケースすらある。法令は存在するが、それが十分に執行されていない、守られていないということが多く、現地政府の役人や警察官が必ずしも信頼できるわけでもない。　日本企業とケニア人弁護士との距離があり、法律と現実の間の大きな隔たりがある。こうした環境で仕事をしていると、平林自身もときどき、何が正しいのかがわからなくなる。確固たる自分の立ち位置や拠り所になるような基準やルールが揺らいでくる。アフリカとは、そんな場所だ。はっきりしているのは、目の前のクライアントが抜き差しならない問題に直面していることと、それを最良の形で解決しなければならないということだ。

現地駐在の5年間で多くのクライアントから依頼を受けられるようになり、平林の活動範囲は広がった。助けが必要になれば、500名近くの東京オフィスの弁護士たちがついているし、優秀な秘書はまるで隣の席に座っているかのように即座に依頼に答えてくれる。ロンドンオフィス、フレンチデスクをはじめ、海外に駐在する多くのTMIの弁護士たちは、オンラインで毎月顔を合わせて緊密につながり、いつでも相談に乗ってくれる。アフリカ大陸にひとりで駐在していても孤独は感じない。こうした同僚たちに助けられながら、ケニアのほか、タンザニア、ナイジェリア、南アフリカ、モロッコなど、これまで平林が案件に関与したアフリカの国々は数十か国になった。 　最近では、さまざまな専門性を持つ弁護士がアフリカ開拓の旗印のもとに集う〈アフリカ・プラクティスグループ〉も発足し、新たな段階に入った手応えがある。だが、平林は慎重な姿勢を崩さない。アフリカの多様性と流動性を自分の目で見てきたからこそ、アフリカ展開も一歩ずつ堅実に進めていなければならないことを知っているからだ。軸足を置く地面を強固なものにするべく、まずはしっかり踏み固めていかなければならない。 　現地事務所との連携もけっして急くことなく、一つ一つ信頼関係を築いていく。その一環としてコロナ禍前の2019年には、アフリカ6か国の弁護士7名を日本に招いてセミナーを行い、日本企業などを回った。これだけの規模でアフリカから弁護士を招聘するのは日本で初めてのことだった。 　圧倒的な資本の差と植民地時代の名残から、アフリカの弁護士たちは欧米の弁護士事務所の下請けとして買い叩かれることが少なくない。現地の事務所に出向しアフリカの弁護士と共に働いてきた平林は、それがどのような経験であるかを身に染みて知っている。アフリカの弁護士は、直接口に出すことは少ないが、悔しい気持ちを抑えて現実に向き合いながら、それでもと力を付けていこうとしている。 　欧米の事務所に負けるものか、アフリカのことは自分たちの力で——。 　そんな静かなプライドが、ひしひしと伝わってくる。平林もその姿勢に共感するし、翻って日本をみれば自分たちの問題でもある。アフリカという大地が、そんな自覚を芽生えさせた。 日本での滞在中、「必ず集合時間を守ってくれ」と繰り返し念を押す平林に、モロッコ人の女性弁護士が温かく言った。 「タクト、いつもそんなにかっちりしてばかりで疲れない？　大丈夫？」 　アフリカの弁護士たちと一緒に、名だたる企業の重厚なロビーに足を踏み入れるとき、日本人である平林が緊張しているのに、アウェイである彼ら彼女らは、いたって堂々としている。どんなときでも大らかにその場を乗り切るしなやかさを持っているのだ。大袈裟な話ではなく、それは人間としての力の表れである。日頃の仕事や生活を通じてアフリカ人たちから学ぶことはこれまでもあったし、彼らの知恵に教わることがまだまだたくさん出てくるだろう。そうして弁護士として、人としての力を磨きながら、ナイロビからアフリカ全土へ、そしてアフリカの外へと新たな道を拓いていきたい。　幼い頃に心を惹きつけられたアフリカ、そこで誕生した人類が全世界へと歩みを進めていくグレートジャーニーのように。

東京から南西に約11,000キロ。提携先であるナイロビの法律事務所を拠点として、アフリカというアウェイで闘う日本企業たちを支える平林。実は大学時代、法学ではなく生物学を専攻していた。一体何が平林に弁護士の道を選ばせ、広大な大陸へと向かわせたのか？5年間の現地駐在で何を感じ、これから何を拓こうとしているのか？

アフリカに立つことで見えてきた弁護士としての軸足

「それでは、質疑応答に移りたいと思います。なんなりと、どうぞ挙手アイコンを押してください」　　分割画面の向こう側にいる参加者たちに、大井は質問を促した。改正個人保護法をテーマとしたこの日のセミナーの主催は〈TMIプライバシー＆セキュリティコンサルティング〉。2019年12月に設立されたばかりの新会社であり、大井は代表取締役を務める。社名が示すとおり、個人情報を主とするデータの利活用とサイバーセキュリティの領域において、法律業務だけに留まらないサービスを提供している。「クッキー収集の同意が必要になることは分かったのですが、具体的にはどうすればいいのでしょう？」「はい。自社のシステムにどう実装するか、ということですね。まずは…」　参加者たちの技術的な質問や疑問に対しても、大井自らが丁寧に答えていく。参加者たちは何度も深く頷き、その表情は次第に晴れやかになっていく。回答しているのが弁護士であることに気付いていない参加者もいたかもしれない。セミナーを終えて一息つく大井に、同席していた若手メンバーが歩み寄る。「今日のテーマは、皆さんの関心がとても高かったですね」「役に立てたようでよかったよ。やっぱり、ニーズがとても大きいな」　そう答えながら、大井は若い頃からずっと感じていた思いを再認識していた。法律事務所は、企業のニーズを十分に拾い切れてない——。そして、なぜそうなのかは、はっきりしている。　決定的に欠けているものがあるのだ。

経営者家系に育った中で、自分も将来は経営者になりたい。これが大井の仕事観の原点だった。ソフトバンクの孫正義社長にも憧れた。学生時代は、勉強や研究よりもビジネスの実業に携わりたいという観点から、法学部においても将来の仕事に直結するであろう司法試験の道を選択した。特に弁護士、検察官、裁判官という職業を将来像として捉えていたわけではなく、実業に最も近いルートはなんだろう？と考えたときに、アカデミックな学問よりも実学を志したのである。　司法試験の準備をしていたとき、大井の人生を方向付けるようなニュースが飛び込んできた。〈ソフトバンク、ナスダック・ジャパン設立準備会社を設立〉　米証券業協会（NASD）と提携し、NASDが米国で運営する米国ナスダック証券市場（ナスダック）の日本版、“ナスダック・ジャパン”を2000年末までに設立する。スタートアップがより盛んになり、日本の市場が大きく動こうとしていた。　このチャンスに飛び込むしかない！　大井は急いでナスダック・ジャパンに志願書を出した。憧れだった孫正義の経営する企業だっただけに、内定を手にした嬉しさときたらない。入社後は、ソフトバンクのベンチャーキャピタル子会社の法務部に配属された。日本でITバブルの絶頂期でもあった1999年当時、ソフトバンクによる積極的なベンチャー投資がなされ、種蒔きしておいた各種サービスや関連会社がサービスインして芽吹いていく。毎日がエキサイティングで、楽しくて仕方がなかった。　ところが、この年の司法試験に合格していた大井は、このまま会社に残るか、退職して司法修習・弁護士の道を歩むかの選択に迫られた。ソフトバンクのベンチャーキャピタル事業は、正に日本のベンチャー業界を牽引しており、残って事業に携わりたいという思いもある。だが他方で、会社の外の立場からでも、ソフトバンクグループの事業展開に加えて、さらに多くのその他のベンチャー企業をサポートできる。後者の道を大井は選んだ。　司法修習を終え、大手を含む数々の法律事務所を訪問する大井には、明確な判断基準があった。クライアントの立場で向き合ったとき、ビジネスに寄り添った立場でクライアントが協働したいと思う事務所か否かという視点である。なぜなら、法務部で依頼者の立場から、日本の大手法律事務所に対して具体的な案件の依頼を経験しており、各法律事務所の弁護士がどのようなスタンスで依頼者と向き合っているかをよく知っていたからだ。「私は弁護士として、日本のベンチャー支援をしてきたいと考えています。例えば、いま金融サービスがオンライン化しており、銀行、証券、保険を１つの口座に融合したサービスに向けた動きも始まってい…」「えっ？　インターネット・バンキングにより銀行業と証券業の融合ってこと？　そんなの銀行法で無理に決まってるよ」　こうした後ろ向きな反応を示す事務所が大半だった中、TMIは唯一違っていた。「そうなんだ！　すごく面白そうだね。大井くん、一緒にやってみようよ！」　その場を盛り上げるための一時の発言でないことは、実際に取り組んでいる案件を聞いても明らかだった。最先端のテクノロジーや斬新なビジネスモデルを臆することなく前向きにキャッチし、クライアントの目指すビジョンに寄り添っている姿勢が伝わってくる。　自分がやりたいことを実現していくために、この上ない法律事務所に出会えた！　面接を担当する弁護士との会話に、大井の心は躍った。

2001年10月末。入所して1か月も経たずして、大井は大手証券会社への駐在を希望した。1年生所員がいきなり事務所を離れるのは異例であり、自分でも無茶を言っているのは百も承知の上だ。それでも、当時の市場動向を前に、居ても立ってもいられなかった。ソフトバンクグループの子会社をはじめ、インターネットビジネスの新興勢が、次々とジャスダックやマザースに上場を果たしている。指をくわえて眺めていては、スタートアップのサポートを志す自分にとって、これほど大きな機会損失はない。大井の熱量が伝わったのか、希望はすんなりと受け入れられた。　週のうち2日はTMIに、3日は証券会社のIPO申請銘柄を審査する部署に駐在することになった。証券会社での大井の業務は、株式の新規公開を東京証券取引所に申請している新興インターネット企業などの上場審査である。事業やサービス内容に違法性がないかどうか、実態を徹底的に調べていく。例えば、あるインターネットサービス企業には、業法の規制対象となるサービスの情報提供をし、そのサービスに興味を持つユーザを集客し、サービス提供企業とユーザをマッチングする機能があった。この機能は、各種の業法の規制に抵触する可能性があるため、ビジネスモデル自体を修正しなければ株式市場には受け入れられない。他社においても、グレーゾーンの混在するビジネスモデルも少なくない。それをどう改善させればいいか。ベンチャー企業のトップとマンツーマンでとことん検討を重ねていく。20代後半という同年代が多く、気持ちの距離感も近い。「こうしたら、どう？」「あー、大井さん、いいね！」　一緒に仕事をし、一緒に遊びながら、新たなビジネスやサービスについて語り合い、上場という目標に向かっていく。自分の思うままに自由に仕事ができた。それだけに責任はともなうが、裁量を持って案件にあたったことで、大きく成長させてもらった実感がある。&nbsp;　多くのITベンチャー企業の上場申請や上場準備をしていく中で、Eコマース、ネット・オークション、オンライン・ゲーム、アニメやスポーツコンテンツの配信といった、じつにさまざまな現場に触れた。のちに、各分野で日本のトップに成長した顔ぶれも少なくない。そうした企業の活動が、人々の生活をどんどん便利に、豊かに変えていく。日本の産業の構図がガラリと変わるダイナミックな局面に立ち会った経験は、大井の貴重な財産になった。　一方では、インシデントへの対応を求められることもあった。勢いがあり多額の投資が集まる若い企業は、何かとターゲットにされやすい。当時は新興株式市場への反社会的勢力の資金流入の事件が多く発生したが、この反社会的勢力の属性やバックグラウンドチェックを専門に扱う弁護士が少なかった。相談は徐々に増えていき、知見が蓄積されるにつれ、さらに多くの事案で声がかかる。　警察の組織犯罪対策課バックアップの下に、企業から反社会的勢力の関与を排除するのが大井の役割だ。ある日、警察の厳重な警備をしたがえ、ある暴力団組事務所の組長の自宅に訪問し、ある企業とフロント企業との契約の合意解約の交渉を企業の代理人として行っていた。大井と組長の押し問答を重ねたすえに日も暮れて、夕食の時間も過ぎ、日付も変わりそうな深夜に、ようやく合意解約が成立した。　修羅場や火事場に飛び込むたびに、どこかゾクゾクする自分がいた。一筋縄ではいかない状況を、法の力を用いていかに収拾させられるか。大きな事案であればあるほど、難解なケースであればあるほど、手応えは大きい。民事介入暴力対策特別委員会のメンバーに名を連ねるなど、大井はこの反社会的勢力排除の領域を業務分野の柱のひとつにしていった。　その後、マフィアやテロリスト集団など国際的な反社会的組織のバックグラウンド調査業務に展開していく。サイバーセキュリティ領域を専門とする現在では、国際的なハッカー集団が、規制当局の経済制裁対象となる反社会的勢力の一類型に認定されていったこともあり、攻撃を受けた企業からのハッカー集団のバックグラウンド調査に活きている。サイバーセキュリティと反社会的勢力対応。一見なんの関連性もない点と点が線でつながったのである。

丸7年間の駐在を終えた大井は、それから間を置かずに留学へと出た。行き先はハワイのホノルルである。それまで、ハワイに行った日本人弁護士は過去2人しかいない。その珍しさが、留学先に選んだ理由だった。ロースクールの卒業後も、ホノルルの法律事務所を研修先に選んだ。ハワイに本拠を構えるレストランの東京進出や、日本企業とハワイの企業のM&amp;Aサポートなど、日本とハワイを結ぶ案件が次々と集まってくる。日本人弁護士に対するニーズは想像以上だった。TMIの先輩弁護士が東京から出張で来た際、大井の顔や半袖シャツの腕に視線をやりながら、こう驚いたほどだ。「なんだ大井、ハワイにいるのに、真っ白じゃないか」「ええ…。あまりに忙しくて、海にも行けないんです」　ハワイにはバカンスのイメージが強いが、実際は全く違っていた。研修先の現地の弁護士たちも皆、朝の7時から仕事を始め、一旦帰宅して夕食をとってから、事務所に戻って24時頃まで仕事をしている。クルマで移動するためお酒を飲んで一息つく時間すら平日にはない。大井も同じ生活スタイルを続けていくうちに、ある確信を抱くようになった。　その地に最初に入った者に、必然的にニーズは集まる——。　前例がないだけに勉強と場数は欠かせないが、それがそのまま、その地のスタンダードになっていく。先行者は、大きな強みを得られるのだ。　大井がハワイから東京オフィスに復帰したのは2008年6月。初代iPhoneが発売された翌年のことになる。スマートフォンをより賢くするアプリ開発ベンチャーのIPOや、コンテンツ開発企業の支援といった案件が続々と舞い込んでくる。新しいサービスが出るたびに、まずは自ら、片っ端から試すことを欠かさなかった。「他社からこんなサービスが出ていますけど、大丈夫ですか？　それと、御社のここのUIの使い勝手ですが…」　弁護士本来の業務外の分野にも、大井は首を突っ込む。クライアントの担当者は数年ごとに異動になるため、弁護士である大井のほうが自社商品やサービスに詳しくなるケースも少なくない。一般的に弁護士は、商品性やサービスの質にまで深く言及しないものだ。だが、大井は全く逆なのである。「あのアプリの売上と利益はどうですか？　新サービスは円滑に運営されていますか？」　売上が低迷した場合、その要因が商品やサービスの質にあるのか、法規制にあるのか。後者であれば、その課題を法律でどうクリアするか、という道順を辿って話を進めていく。法律はあくまで、クライアントの問題を解決するツールに過ぎない。先行者としての強みがある場合であっても、この基本は変わらないと大井は考えている。

東京オフィス復帰後には、証券会社の駐在時代を思い出させるような、インターネット企業の新規ビジネスの規制対応を中心とする相談も増えていった。やはり主戦場は、リアルではなくサイバー空間でのビジネスが舞台であった。また、オンライン上のビジネスの前向きな法対応だけではなく、データの内部不正利用や、外部へのデータ流出、オンライン上のデータ漏えい事故などのインシデントが大きな社会問題としても取り沙汰されるようになった。大井は経済産業省のセキュリティ政策室有識者ワーキンググループ委員を務めるなど、法律改正や新法制定にも関わりながら、知見と経験をさらに積んでいく。　M&amp;Aの分野においても、サイバーリスクの評価は見逃せなくなった。例えば2018年には、アメリカの大手ホテルグループが「最大5億人の個人情報流出の恐れ」と発表したが、過去に買収したホテルが受けていた不正アクセスが引き金となっていた。犯罪や事故においても、イギリスではサイバーアタックによる銀行の被害額が店舗強盗の被害額を上回った。日本においても、交通事故が毎年減少傾向にはあるが、今後は自動運転制御システムへの攻撃による再増加が懸念される。さまざまな問題が、現実空間からサイバー空間へと、置き換わっていくのだ。まだ特殊に見られがちなサイバーセキュリティだが、さまざまな分野との接点の広がりが予測されるため、すべての弁護士が引き出しとして持っていなければならない時代がやってくると考えられる。　こうした背景から設立したのが、TMIプライバシー＆セキュリティコンサルティング株式会社だ。所内公募の第1号案件として設立された子会社である。従前から大井がチームのメンバーと共に行ってきた業務の中から、まずはデータ利活用とサイバーセキュリティに絞り込み、この2つの領域で業界ナンバーワンを目指す。クライアントからの法律ニーズと技術ニーズにワンストップの体制で応えるため、DMP（データ・マネジメント・プラットフォーム）のプラットフォーマーやベンダーとの連携を強化し、膨大なデータも蓄積させていく。つまり、データの一極集中によって利便性を高める攻めの側面と、セキュリティという守りの側面との両方を担う。　この2つの領域は、「自分たちが最大限に提供できる価値とは何か？」と、徹底的に吟味し選び抜いたものだ。かつての民事介入暴力対策やハワイ研修と同様に、1番手のポジションに立つことで、知見や経験が蓄積されていく。加えて新会社では、先進的でチャレンジングな案件が集まってくる。例えば、サイバー攻撃によるリスクヘッジのニーズに応えるため、どんな設計の保険をどう提供するかを保険会社と提携し、この新会社で自ら販売することにもなった。「えっ？　弁護士が保険も売る？　自分が何屋かわかっているのか？」　外からは、そんな声も聞こえてくるが、大井の返答はこうだ。「弁護士として、社会やクライアントのニーズがわかっているのか？」　クライアントにとって、関心のど真ん中にあるのは、実際のビジネスにどう役立てるのか、である。ところが、弁護士は法律にフォーカスしすぎて視野が狭くなりがちだ。だから、社会やクライアントのニーズをわかっていない弁護士が多すぎる——。大井はそう考えている。多くの弁護士が陥っている、クライアントとの視点のズレを埋めていきたい。そのためにはまず、弁護士である前に、クライアントとサービスへの興味は欠かせないのだ。　セミナーを終えた大井は、TMIの弁護士でもある、新会社の若手メンバーに尋ねた。「さっき最後に質問してくれたクライアントのサービス内容、知ってた？」「ええ、ほら、これですよ。何が新しいかといいますと…」　その日もまた、窓の外がすっかり暗くなったオフィスに、スマートフォンのアプリを指しながら熱っぽく解説する若手メンバーと、身を乗り出して目を輝かせる大井の姿があった。

所内公募から生まれた、サイバー領域に特化した新会社を率いる大井。法学部→ソフトバンクグループのVC子会社の法務、オンライン証券会社の経営企画室→TMI入所1か月目から7年間の証券会社駐在→海外留学→ベンチャー支援とサイバーインシデント対応→新会社の代表取締役というキャリアを歩んできた。この異色の経歴には、大井のどんな考えがあったのか？新会社にどんなビジョンを描いているのか？

入所直後の出向から新会社設立まで。一番乗りの舞台はいま、サイバー空間へ

その日曜日も、TMIのオフィスには岩倉の姿があった。ゴルフの約束でも入らない限り、ごく当たり前の光景になっている。デスク狭しと資料や書物が積まれ、ページをめくる音やキーボードを叩く音が響く。「岩倉先生、今日もお仕事ですか？」「はい。田中先生も、おつかれさまです。しっかり調べておかないと、ついていけませんから」　2人が週末に事務所で顔を合わせることは少なくない。岩倉は、土日も時間を惜しまず、さまざまな情報を吸収してはアイデアを練っているのである。抱えている案件はもちろんのこと、教授を務める大学院やロースクールでの講義のための準備も欠かさない。　大学生や社会人向けの講義を始めてから、29年になる。経営系や理系の学部など、法律以外の分野を専攻している学生も、岩倉の聴講にやって来る。そんな学生や受講生たちから、なんども聞かれてきた質問がある。「岩倉先生が考える、弁護士にとって一番大切なことはなんですか？」

岩倉の移籍は、それだけで大きなニュースとなり、業界内を驚かせた。「国内最大手の西村あさひ法律事務所」の「エース弁護士」が「30年在籍した事務所を離れる」のだから無理もない。独立や外資系事務所への移籍ならまだしも、一体なぜ、直接競合することも少なくない国内大手事務所を選んだのか？弁護士・岩倉があるのは、新人時代からこの事務所に育てられたおかげに他ならないのではないのか？そんな疑問が生じるのは当然だろう。しかし岩倉自身、長年を振り返り熟慮の上で決めた選択だった。　時を遡ること1983年、大学在学中に司法試験に合格した岩倉に、かつてのゼミの先輩から連絡が入った。「合格おめでとう。こんど、うちの事務所に遊びに来ないか。紹介したい先生がいるんだ」　そこで運命的に出会ったのが、のちに師と仰ぐ存在となる西村利郎弁護士だった。事務所のトップである西村は目を輝かせながら言った。「岩倉くん、これからは国際化の時代だ。東京のマーケットも世界へと広がっていくだろう。ニューヨークやロンドンにある何百、何千人規模の事務所と伍していける、そんな事務所を一緒につくろう」　この言葉が、司法修習中も頭から離れなかった。裁判官や検察官、何か所か訪問した他の法律事務所という選択肢に全く惹かれなかったわけではない。だが、渉外弁護士として、西村の事務所で世界を舞台に闘っていくというビジョンに、もっとも夢とやりがいを感じた。　入所後、岩倉が最初に担当した大型案件は、東芝とモトローラの合弁事業の案件だった。これを皮切りに、敵対的買収の走りともいえるミネベアによる三協精機のＭ＆Ａ、朝日新聞の国際的著作権問題など、外国企業や海外を舞台とする案件を中心に、実務を学んでいく。そのたびに厳しい指導を授けた西村が、ある日こう言った。「岩倉くん、そろそろ頃合いだろう。アメリカに行って、力をつけてきなさい」　入所5年目となる1992年、ハーバード大学ロースクールに留学し、翌年からはニューヨークとワシントンD.C.の法律事務所に勤務した。ニューヨークでの上司であったルイ・ベグリー弁護士は、実にユニークで魅力的な人物だ。平日には幅広い分野の案件を担当し、週末はベスト・セラー作家として作家活動にいそしみ、ロスチャイルド家出身の奥様と共に、毎晩社交界にも積極的に顔を出すのである。当時のアメリカは弁護士の専門化が進んでいた時期だった。法律事務所に持ち込まれる案件が多様化・複雑化・高度化する中で、それぞれの分野のプロが専門性をとことん磨くのは、弁護士のあり方として正しい。だが、彼のようにM&amp;Aも訴訟も何でもやれるプロフェッショナルな弁護士がいてもいい。そんな気付きが、岩倉の仕事の広さも深さも拡大させていくことになる。　1995年に帰国した岩倉を待っていたのが、弁護士人生の中でも最大の転機となった、大和銀行ニューヨーク支店損失事件である。西村あさひ（当時は西村眞田）における企業の危機管理案件の端緒といえる事件である。西村弁護士と金融に詳しいシニア・パートナー弁護士がトップに立ち、まだ若いパートナーの岩倉を主任とする20名のチームが組まれた。現地であるアメリカでも、ベグリー弁護士による150名のチームをつくってもらった。アメリカの検察当局との交渉だけではなく、米国内子銀行すべての売却、銀行内の処理、株主への対応、当時の大蔵省との折衝など、民事も刑事も行政事件もあり、求められるテーマは多岐にわたる。渡米も30回を超え、時差がわからなくなるほど往復する日々を過ごす。　そんな中にあっても、依頼者をどのように守るか、法的な正義をどこに据えるのか、と常に問い続け考え続けた。この事件の処理をなんとかやりきったことは、弁護士として歩んでいく上での大きな財産となった。何より、日米合わせて最終的に200名以上にのぼる弁護士たちのチームを自分でコントロールできた経験は大きい。

ニューヨークを舞台とした案件では、こんなこともあった。日本の某金融機関を当事者とする国際仲裁を担当した際、相手側から突如として、こちらの依頼者に不利な証拠が提出されたのだ。それは10年以上前の依頼者会社と相手側企業双方のトップの電話録音テープだった。仲裁手続ではそれまで全く言及されていなかったものだ。同じチームのアメリカ人弁護士たちは、一様に熱くなっている。「ふざけるな！　今さらこんな証拠を出すのはアンフェアだ！」　予期せぬ展開に、岩倉も動揺の色を隠せない。しかし、そのときに、かつて西村が岩倉に与えたアドバイスが思い出された。「岩倉、弁護士というものはな、何が出てきても驚いた顔を見せてはいけないんだ」　そんなことは知っていたという顔付きを装った岩倉の次の一言で、チームの弁護士たちは冷静さを取り戻した。「大丈夫。相手方は所詮、こんな証拠しか出せないってことだよ」　師と仰いできた西村は、2006年に他界した。20年ものあいだ自分を鍛え続け、見守り続け、励まし続けてくれた恩師との別れに、岩倉は号泣した。それ以来、担当する案件のさまざまな局面で、ふと思う。西村なら、なんと言うだろう。こんな報告をしたら怒鳴られるのではないか。そうして師の影を追うことで、つねに鍛えられているように感じる。　2012年、岩倉は50歳という年齢を期に、先のキャリアについて改めて考えてみた。所属する事務所では定年を迎えるとパートナーシップからは外れ、名誉職の肩書きが与えられる。だが、自分はずっと弁護士として第一線の現場で働いていきたい。移籍するにしても、外資系の事務所は肌に合わないだろう。その時になって独立して事務所をつくるとなると、仮に10人、20人の弁護士を連れて揃えたとしても、これまでのような大型案件には携われないだろう。思い悩んだ末に、岩倉は思い切って、かつて同じ事務所の大先輩でもあった田中代表に相談を持ちかけた。「一度、そちらに伺って、お話をさせてもらえませんか」　西村が73歳で亡くなるまで一弁護士であったのと同じように、田中代表もまた、70歳を越えて弁護士として第一線に立ち続けている。年齢を重ねてもなお依頼者に向き合っていくその姿勢は、岩倉にとってひとつの理想だ。　田中が設立したTMIには定年制がないと知ってはいたが、実際に足を運んでみると所内の雰囲気がなんとも心地よかった。大手法律事務所とは思えない柔らかな空気が満ちている。10年後20年後に、ここで働いている自分の姿が浮かんできた。岩倉は決断を下した。　誰もが知る弁護士の移籍話に、外野はしばらく騒然としていた。アメリカではベテランのスカウトや移籍は当たり前だが、日本にまだそういう慣習はないからである。はからずも、シニア期までを見据えた弁護士としてのひとつのキャリアのあり方を後輩たちに示す、象徴的な移籍となった。

移籍に際して田中代表は、岩倉をあれこれと縛るようなことはいっさい口にしなかった。これまでの実績についてはもちろん、「勝つためにそこまでやるのか」「アソシエイトを叱責するらしい」といった業界内の一部からの否定的な声もすべて知った上で、新たな一員として受け入れている。ただひとつだけ、田中代表が求めたことがある。「岩倉先生、うちに来るからには、後輩たちにいろいろと教えてやってほしい」「はい。私にできることでしたら、そうさせていただきます」　そう答えた岩倉だったが、さてどうしたものか、と悩んだ。これまで、京大や北大や一橋大、ハーバード大などで教えてきた経験ならば、豊富にある。そこでは、自分のそれまでの担当案件をテーマにしてきた。　たとえば、外資ファンドによる敵対的TOBに対して防衛策を講じたブルドックソース事件では、日本初のポイズンビルを裁判官に認めさせるまでについて。日本最大となる訴額3760億円としても知られる日本興業銀行による住専母体行債権の無税償却に関する税務訴訟では、一審勝訴〜高裁敗訴〜最高裁で全面勝訴判決を得るまでの8年間の展開について。三行の合併によるみずほホールディングスの設立や東京三菱FGとUFJHDの経営統合では、ストラクチャーの構築や法的問題点の分析・検討の実務について。それぞれの詳細な経緯や、どんなスキームを、どう組み立てていったかを講義形式で教えてきた。　だが、学生と現役の弁護士では教える内容も教え方も全く異なる。過去の案件を紐解くだけではなく、日々の業務の中で次々と発生する課題に対して、どう対処していくのか。そのとき担当しているプロジェクトチームの一員として、つまり当事者としての体験を通してでしか、学び取ることはできないだろう。　その代わり、自分の仕事をオープンに見せながら、実戦の場で徹底的に鍛える。チームの若手メンバーのドラフトには、紙面に書き切れないほどのコメントを加えて戻す。クオリティの大切さを伝えるたび、岩倉はある言葉を思い出す。日本を代表する長島大野法律事務所（当時）のトップであった長島安治弁護士が、かつてこう語ってくれたのだ。「岩倉くん、弁護士にいちばん大事なのは、単なるクオリティではなく、ミスをしないこと、ケアフルであることなんだよ」　実にシンプルだが、至言だと岩倉は感じた。法律の適用についても、解釈についても、裁判例の引用についても、ミスをしないのは当たり前で最低限のことなのだ。そのためには、事前準備を怠ってはならず、とにかく勉強をするしかない。自分が確実に理解した上で、依頼者や相手方や裁判官に対して、準備した理屈や説明をわかりやすく伝えられているかどうか、説得力があるかどうか。そこをクリアした先に、初めてクオリティというものが認められる。ドラフトに岩倉が書き込んだコメントの多さに、戸惑った若手がいるのは容易に想像できる。だが、そうしないと当人たちの成長は望めない。もちろんそれは依頼者のためであり、TMIのレピュテーションのためでもあるのだ。

TMIに移籍してから、5年目を迎えた2021年1月下旬、大手新聞社が、全9回にわたって岩倉のTMI移籍後に担当した案件を取り上げた。連載のタイトルは『ハゲタカと闘った328日』。　不動産会社のユニゾホールディングスが敵対的買収の標的とされ、ようやく見つけた外資系ホワイトナイトが含み資産目的だったことで白紙に戻る。次々と新たなホワイトナイトが名乗りを上げ、提案されたEBO（従業員による買収策）の道を探り、高値でのTOB（株式公開買い付け）をちらつかせるファンドも争奪戦へと加わる。しかし、コロナ禍も影響して株の買取価格の引き上げに断念して手を引く。社員たちによる受け皿会社へのTOBが発行株式の2/3に達し、日本初のEBO案件が成立した。こうした一連の流れを詳細に伝える記事だった。　実は岩倉は、EBOで決着を見るとは思っていなかった。途中で手を引いた世界最大のPE ファンドに対して、日本企業として譲れない条件を呑ませるべく、約3カ月におよぶ交渉を粘り強く続けていたのだ。そうした意味では、EBOを提案したファンド側に屈したという捉え方もできる。だが、勝った負けたという基準ではなく、依頼者にとって好ましい結果に導けたかどうかが重要だと岩倉は考えている。そのためには、経営サイドだけではなく、労働者サイド、支援する金融機関など、各々が納得できるポイントを合理的に探り、複数案を提示できる柔軟性や視野の広さも必要になる。　だからこそ、この案件をTMIのメンバーと一緒にやり遂げられた意味は大きい。M&amp;Aだけでなく、ファイナンスや倒産法など、各分野を専門とする50人のプロジェクトチームを組んだ。ただ人数がいればいいという話ではない。それぞれの専門性を武器にさまざまなスキームを用意し、EBO成立に必要となる外部の中堅法律事務所もサポートした。こうした複雑で激しいM&amp;Aの交渉を英語でできる弁護士は、岩倉の知る限り日本では10人もいないが、TMIには何人もの有能なタレントがいるのである。大手事務所ならどこでもできるというわけではない。　新たな領域に挑戦し、日本の第一人者となっているパートナーもTMIには少なくない。ここに来なければ、岩倉にとっても未知なる分野である、フィンテックやブロックチェーンの案件に関わることもなかっただろう。　というわけで、休日返上の、岩倉の勉強は続いている。　大学での講義はリモートが増えたが、学生たちと向き合う時間もまた、案件の現場とは違った面白さがある。学者とは異なる角度から、国内外の実務を知る弁護士ならではのスタンスとマインドを少しでも伝えていきたいし、どんな質問にも答えたいと思っている。ある学生が尋ねた。「弁護士にとっていちばん大切なことはなんでしょう」「もちろん、依頼者をなんとしてでも護る。これに尽きる」　そう答えた上で、岩倉はこう続ける。「そのためには、座標軸を持って、戦略を練ることですよ」　依頼者が重視したいのは、時間なのか、条件なのか、お金なのか、何なのか。しっかりと聞き出し理解したうえで、それらを座標軸上にどのように位置付け、ベクトルの向きを定め、現状からどう導いていくのか、と思考する。そうして戦略をプロデュースするのが、弁護士の役割なのだ。同じ案件であっても、どんな座標軸を描くかによって、進め方や扱い方は弁護士一人ひとり異なってくる。そして、自らの歩んでいく道にも、座標軸を持つことが必要だ。自分は、何を大切にしたいのかを明確化し、進むべき方向を見極めていく。岩倉にとって、そうして選んだのが、TMIへの移籍という道だったことは言うまでもない。　自分は還暦に近いが、契約交渉や裁判の場に立つと込み上げてくる独特の緊張感も、新米弁護士の頃からなんら変わっていない。まだまだこれからも、依頼者の力になっていきたい。「これを乗り越えないと大変なことになる、倒産の危険に陥る、ビジネスが立ち行かなくなる」といったときに、「岩倉先生に任せよう」「岩倉先生に任せるしかない」と頼られる弁護士になりたい。　依頼者のために、自分はどこまで打ち込めるか。バッジを付けて以来、一貫して変わらない岩倉の原点である。

老舗ともいえる最大手の事務所に30年在籍し、数々の大型案件を手がけてきた岩倉。2017年1月のTMIへの移籍は、当時業界内でも大きな話題となった。日本を代表する渉外弁護士が、なぜ新たな環境での再出発を選んだのか？裁判に強いといわれるその力は、どう育まれてきたのか？そして、彼の考える「弁護士として最も重要なこと」とは？